bW62号 労働判例 「豊國工業事件」
               (奈良地裁 平成18年9月5日 判決)
社会保険資格取得届出義務の法的性質
  解 説
 〈事実の概要〉
 本件は、X(原告、反訴被告)が、Y(被告、反訴原告)の社会保険資格取得届出義務の懈怠によって損害を被ったとしてその賠償を求めた事件である。Xは、昭和19年生まれであるが、平成10年にオフィス用収納家具等鋼鉄製事務用器具の製造を行う株式会社であるY(社員数300人)に就職し、平成16年11月30日まで勤務し、同日退職した。Yは、健康保険法、厚生年金保険法の適用事業場に該当するが、他の事業場とともに健康保険法8条以下に基づき大阪文紙事務機器健康保険組合を設立し、また、厚生年金保険法106条以下に基づき関西文紙事務機器厚生年金基金を設立している。Xが、Yで勤務した期間のうち、平成14年9月分までについては健康保険、厚生年金、厚生年金基金への加入手続きがされなかった。XがYに就職するに際して、Yの商品管理課長の地位にあったAが面接したが、日給が1万3000円であること、定年(60歳)まで雇用できること等を説明するとともに、社会保険への加入についてのXの問合せ・確認に対して、正社員でないと加入できない、50歳以上の者は正社員になれない旨の説明をした。Xがせめて雇用保険だけでも加入したと述べたのに対して、Aはそれを了承した。Xは、平成12年5月ころ、国民年金の納付書の記載から、Xも厚生年金に加入できるのではないかとの疑問を持ち、同年7月20日ころ社会保険事務所に問合わせをし、その結果、Xは自分にも厚生年金等への加入資格があることを知り、Yの総務課長Dに加入手続きを求めたが、Dは、現状の方が手取り額が多く、加入しない方が得であるとして受け入れず、Xがなおも加入手続きを求めると、それ以上言うのであれば、辞めてもらうとの態度であった。Xは、平成15年10月ころにもDに対して同様の要望をしたが、Dの態度は変わらなかった。Xは、Dに直接要求することを断念し、社会保険事務所に相談したが、事態の解決には至らなかった。Xは、平成16年8月ころ、60歳の定年を目前にして、社会保険事務所で年金の仕組みについて説明を受け、Yのこれまでの取り扱いが不当であることを確認し、Yの健保組合での経緯等を説明したが、その結果、平成14年10月以降の分については、平成16年10月に過去2年間分につき遡及して加入する手続きがなされた。その際、Xは、上記の遡及的加入により被保険者本人が負担すべき自己負担部分のうち、47万5786円をYに支払っている。
 本件は、Xが、Yの社会保険資格取得届出義務を懈怠したことにより、支払う必要がなかった国民健康保険保険料、国民年金保険料(配偶者の分を含めて)308万円余、給付が受けられたはずの厚生年金333万円余、慰謝料100万円、弁護士費用50万円(なお損益相殺として254万円余を計上)等を請求したものである。これに対して、Yは反訴として、YがXの厚生年金等の社会保険について平成16年10月に過去2年間分につき遡及して加入する手続きをして、Xの本人負担分合計122万円余を支払ったとして、残金74万円余の支払いを求めた。
 〈判決の要旨〉
 裁判所は、健康保険法、厚生年金保険法が事業主に対して被保険者の資格取得について各保険者への届出を義務づけたのは、社会保険制度への強制加入の原則を実現するためであり、強制加入の原則は、保険制度の財政基盤を強化するに止まらず、当該事業所で使用される特定の労働者に対して保険給付を受ける権利を具体的に保障する目的をも有するとして、事業主がこのような届出義務を怠ることは、被保険者資格を取得した当該労働者の法益をも直接侵害する違法なものであり、労働契約上の債務不履行をも構成するとした。また、労使当事者の間で合意があることをもって当然にその届出義務の懈怠が正当化されるわけでもないとした。その上で、Xの主張どおり、Xと配偶者の国民年金保険料、国民健康保険保険料、厚生年金の増加分を損害と認定している(慰謝料20万円、弁護士費用30万円)。社会保険の被保険者資格取得の届出を懈怠するケースは実際上少なくないが、その結果として相当額の損害賠償が課せられることになるというのは違法是正の一方策というべきであろう。

                                  BACK